こんにちは。
早いもので今日であの震災から5年も過ぎるようであります。
時間は優しくもあるけど、時として残酷だ。時間の経過とともに、記憶は着実に薄くなっていきますからね。時と共に薄くなるのは、私の髪だけじゃないのであります。
あんなに残酷な災害・人災も、時間と共に中和されていく。
時と共に薄れゆく記憶を忘れないために。
だから今日は、私の記憶を記録することにしました。
スポンサーリンク
この記事の概要
被災当日の状況。
私はあの日、地元である栃木県で被災致しました。
栃木県の震度は6強。これまで体験したことのない強い揺れが突然起こりました。
橋が揺れて、風もないのに信号機が揺れた。
2011年3月11日金曜日、午後2時半頃。私は会社の車で営業先へ向かっていた。
ちょうど那珂川の橋を渡っていた時、気持ち悪い揺れが起きたのです。
ぼよん、ぼよん、と弾むような、波打つような気持ち悪い揺れでした。地震の揺れを車のサスペンションが変に吸収したのでしょう。
橋を渡った先の赤信号で止まったのですが、その信号がめっちゃ揺れてる訳でして。
・・・ははー、なるほど、風だね。風のいたずらですね、はいはい、そういうことね。
しかし木の枝はまったく動いていない。つまり、風ではない。
コンマ3秒の間に私の頭脳はフル回転致しました。そして「これは風ではない、これは地震だ!」と結論付けたのです。
追い打ちをかけるように、カーラジオの生番組があり得ない状況に混乱しておりました。
「みなさん!落ち着いて下さい!只今非常に強い揺れが来ています!」
それはいつも聞きなれたラジオパーソナリティーの口から、一番聞きたくなかった言葉でした。
収まらない揺れ、そして停電。
赤信号で止まっていた私でありましたが、不意に赤信号が消えました。
赤でも黄色でも青でもない。停電でございます。
だんだん訳が分からなくなってきましたが、取りあえず道路で立ち往生する訳にもいきません。
私は近くの空き地に車を止めて、地震が収まるのをじっと待っていたのです。
・・・はっ!つ、は無事なのでありますか!?
に連絡をとろうと思って携帯を見ると、圏外のマーク。これは完全に異常事態でございます。
余震が続く中、と連絡も取れず、私は車の中で1時間ほど待機していたのでした。
そして夕方4時ごろ、余震が少し弱まりました。
私は停電で無法地帯となった交差点をビクビクしながら通って、なんとか会社に辿り着いたのでした。
テレビに映し出された津波の映像。
会社の被害は窓ガラスが割れた物損のみでした。ケガ人がいなくてよかった。
会社のテレビに映っていたのは、あの津波の映像でした。その映像を見て、私はついに思考停止になりました。
・・・はて?これはこの世の出来事なのでしょうか?夢なら覚めて欲しいのですが・・・。
押し流される街、炎上するコンビナート。言葉を失うとは、まさにこのことでしょう。
しかし私が最も気になっていたのは、の安否です。未だの生存が確認できていない。生きているのか、無事なのか。
不安な気持ちを抱えながら家に帰ると、変わりないが出迎えてくれました。
生きてて良かった。無事でよかった。
これで私の震災は、「大きな地震があったけど、無事でよかった」で終わるはずだった。
しかし私の本当の震災は、ここから始まるのでした・・・。
原発の爆発、放射能の被害。
「原発が爆発したらしい」。ウソだか本当だかよく分からない情報ばかりでしたが、どうやら原発の一部が爆発して、放射性物質が飛び散ったらしい。
それだけは間違いない事実でした。
放射性物質が飛んできた。
原発が爆発して、放射性物質が飛んできたようだ。
セシウム?ヨウ素?一体何の話なのでしょうか。私にはさっぱり分かりません。
情報も何が本当で何が間違いないのか、分かりません。
そして何よりも、国、そして報道機関が真実を伝えているとは思えませんでした。
昨日まで当たり前にそこにあった、私の何気ない日常の幸せは一体どこに消えてしまったのでしょうか。
外は放射性物質が飛んでくる世界になってしまいました。ここはナウシカの世界でしょうか。
私はとても不安でした。それと同時に、どうしようもない怒りがありました。
それはがを妊娠していたからです。これから生まれてくる命。そして命を生む命。
私は自分の家族を守る為、どうしたらいいのか、必死に考えました。
・・・。・・・・。そうだ、逃げましょう、そうしましょう。
私は全てを捨てて、と共に西へ逃げる計画を打ちたてました。
・・・仕事?いやいや、命あっての仕事でございますから。
しかし結果的にはそれ以上の爆発が起きることなく、私の逃亡計画は未遂に終わりました。
妊婦ののためにできることを。
非常にタイミングが悪い事に、放射性物質が降り注いでいた頃、私のは妊婦中でした。
初めての妊娠というだけで不安だったのに、放射性物質のせいでさらに不安だったことでしょう。
そんな、お腹の中のの為に、私は一体何ができるだろうか。
その答えは考えるまでもありません。安全な食材を調達すること、ただそれだけでございます。
当初より風評被害という言葉がありました。
その被害が風評なのか、実被害なのか、その違いは私には分かりません。
しかしただ一つ言えるのは、私の、お腹の子供の命を責任持って守れるのは、私だけであるということ。
私は日夜食材の調達に走りました。一生懸命でしたが、ふと立ち止まると涙がこぼれそうになりました。
「なぜ、こうなった?」と。
それから5年、終わらない問題。
あの震災から5年が経ちました。
のお腹の中にいたは、4歳になりました。ホント、大きくなりました。今では次男も生まれました。
私はお陰さまで、色々ありますが、幸せでございますよ。
しかし、それはあの震災の記憶にフタをしているだけなのです。
安心して食べられた農作物、水を返して欲しい。
あれから5年。もう私のまわりでは、「セシウムが!」と声を荒げる人はほとんどいなくなりました。
テレビやネットでも、「セシウムが!」なんて番組も、ほとんど見ることもありません。
一見、放射能の問題は既に解決されたように思えます。
「検査して問題がなかった。だから大丈夫。」
しかしでございます。
あえて口に出しませんが、私はこの想いを1日とて忘れたことはございませんよ?
私は学者様ではありませんので、検査結果がどうあれ、それが安全なのかは分かりません。
安全性が分かるのは、もしかしたら10年、20年先の話かもしれませんし。
ただ、今、私が何事もなかったように地元の食材を食べ、地元の水を飲んでいるのは、「気にしていたらストレスでやられる」からですよ。
つまり、あのときの記憶にフタをしてしまっている訳です。
放射性物質の毒性について考え始めたら、不安に駆られて夜も眠れません。子供への影響を考えたら、私の心は怒りで支配されてしまいます。
でも、それを考えたところで、私にはどうしようもないのですよ、悲しいですが。
しかし、忘れて欲しくありません。
ばら撒かれた放射性物質の爪後は消えることなく、子供たちの世代に引き継がれていくことを。
それでも、「私たちは前を向いて歩いていくしかない」、ということを。
まとめ:記憶に蓋をして、前に進むしかないのか?
今回は時間と共に薄れていく記憶を、ブログの中に書き記させて頂きました。
しかし残念ながら、これからもっと時間が経てば、きっと私の記憶も薄まってしまうのでしょう。
また、この記事は、多くの人が経験した震災のストーリーの中のたった1つであること。
声なき声として、多くの人の胸の奥底にしまわれていることでしょう。
震災の問題が本当に解決する日は来るのでしょうか。大切な子供たちへの影響はあるのでしょうか。
いつの日か問題が解決し、全てが納得いく形で終わることを願っております。